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ブログ・四方山噺 - 最新エントリー

大山はA級

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1)会長の徒然日記
執筆 : 
osamu-A001 2012-7-6 3:32
各山岳クラブが山行するにあたりABCとクラス分けしているが、大山はA級とされている。「大山に登ることができたら、日本中のどの山でも登れる」と言われているがなるほどである。
 このところ梅雨の晴れ間を選んで先週・今週と2回大山に登ったが、やはりいつ登っても大山はキツイ山だ。ドッコイショ、ドッコイショの急登、階段登りの連続が次第に効いてきて誰を見てもハアハア言いながら滝のような汗を流して登っている。
 自分なりの感想を言えば一番キツイのは3合目から5合目ではないかと思う。樹林帯なので景色が見えないし急な登りだ。6合目から上も急な登りだが眺望も開け風も通るので気分も良く、グングン高度が上がるのが良くわかり気持ちを励ましてくれる。
 今週は割と元気よく南光河原駐車場から夏山道経由で頂上まで2時間20分で登った。いま大山は全山が緑いっぱいに輝き、ウグイス、ホトトギス、カッコウがにぎやかだ。

第6話「だいせん」

カテゴリ : 
1)会長の徒然日記
執筆 : 
osamu-A001 2012-6-28 7:26
◆第6話「だいせん」
 伯耆の国の大山を、知らない人が普通に読めば「おおやま」と呼ぶことでしょう。そりゃ無理もありませんね。私たちは昔から「だいせん」と呼ぶことに何の抵抗感もなく今日に至っておりますが、ではいったい大山を「だいせん」と呼ぶことになったいわれは?となると今まで誰からも聞いたことがありません。そこでインターネットや文献を通じて、そのいわれを探ってみました。

 まず、元、山陰歴史館館長の杉本良巳氏の私見では、九州は筑紫郡大宰府町にある大山寺(だいせんじ)と関係があるのではないかと言う説です。この大山寺、元は竈門山寺と言い、大宰府とこの寺との位置関係は中国の洛陽と泰山の関係を思わせるものであり、泰山⇒大山から大山寺と改名されたのもそこらあたりではではないか?と推論されています。
かたや鳥取県の大山は出雲風土記(733年)に火神岳(ひのかみのたけ)として記されているが、以降文献に現れず11世紀中頃になって突然、新猿楽記に伯耆大山として現れます。これも寺と大きな山の位置から竈門山寺と同様に大山と改名されたのではないか?とされているが、いまいちストンと腑に落ちないところがあります。

一方、下村章雄氏著の大山史話を読んでみると、太平記には奈良時代に入る前の頃、大和葛城山に役小角(えんのおづぬ)と言う有名な修験道の開祖が居り、大和金峯山に千日籠り祈祷していたところ吉野蔵王権現が現れたのち、伯耆の国の「大仙」に飛び去って行ったとあり、私はこの時代の大仙の呼び名が今日の大山(だいせん)に転じたものではないか?と勝手な解釈をしておりますが、みなさんいかがですか?
 修験道では大山が金峯山・熊野・吉野・富士山と並び称せられており、金峯山と大山とのえにしが書かれていることを見ても、大山(大仙)の修験道が古くして盛んであったことを証明しているとされています。

みんなで富士山に登ろう

カテゴリ : 
1)会長の徒然日記
執筆 : 
osamu-A001 2012-6-19 3:29
会報2012No2(4/22)にて案内のあった「富士山頂からのスキー滑降ツアー」のための事前訓練の一つとして、このたび企画・実行リーダーの坂本徹さんから富士山登山のプランが紹介されました。
 ひとつは今年8月3日(金)~8月6日(月)、2つ目は8月17日(金)~8月20日(月)のコースです。坂本さんが綿密な計画を練っており、個々人ではなかなか実行しにくいことですから、足腰の鍛錬、高度順化を兼ね夏の富士山登山を楽しもうではないですか?
 交通や山小屋の手配もあることから、希望の方は6月30日までに坂本さんにご連絡ください。

第5話中の原・上の原

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1)会長の徒然日記
執筆 : 
osamu-A001 2012-6-13 13:35
スキーを始めたころに先輩から教えてもらった話をしましょう。大山スキー場のゲレンデ名でよく誤解されるのは「中の原」「上の原」の位置です。
それは「中」「上」と言う文字から勝手に判断・理解をするためであって、たいていの人があの広大な三角形のゲレンデの中段から下が中の原であり、そこから上が上の原だと思うようです。
 しかし昔の地形は三鈷峰(上方)に向かって現在のホワイトパレス(旧名、中の原スキーセンター、中の原レストハウス)左側に大きく深い沢筋がありゲレンデ上部でないと左右に行き来できませんでした。つまりタテに分割された二つのゲレンデだったのです。

 こういう地形の関係で大山寺集落から上がってくると先ず現れるのが「中の原」であり、更に道を上がってその沢筋を越えて行くから「上の原」となっていたのです。
従って「中の原・上の原」はゲレンデの標高ではなく上がって行く道筋の順番で名づけられていたのです。
それが後年、この左右のゲレンデを隔てている沢筋が埋められたことにより見た目には一枚の二等辺三角形ゲレンデとなり、知らない人が聞けばどう思っても左タテ半分が上の原で右タテ半分が中の原とは理解できないのもむべなるかなと言うところです。
 昭和35年頃は中の原がメインのゲレンデであり、上の原は人影少なく静かでした。また上の原下部には松の大木が沢山あり、この樹間を回って滑るのもまた楽しいことでした。

大山余話第4話

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1)会長の徒然日記
執筆 : 
osamu-A001 2012-5-30 6:14
◆第4話 青雲閣
 ホテル大山は、宿泊施設のほとんどが宿坊や旅館だった大山で、初めて本格的・大規模なホテルスタイルとして昭和39年12月、大阪に本社を持つ日本交通資本により誕生しました。
正式な名前は「ホテル大山 青雲閣」でしたが、みんな青雲閣と呼んでおりました。当時の広告にもホテル青雲閣 電話101番とありますし、ホテル横の坂道には今も当時の石破二朗県知事(現、石破茂衆議院議員の父君)揮毫による青雲閣の文字が刻まれた大きな自然石が鎮座ましましています。
 当初、ホテルの5階の各部屋(和室)は、山陰放送や高島屋などが年間契約で借りてお得意様接待や社員保養に使っており、1階ロビーにはカウンターバーもあり大勢のお客で賑わったものでした。また外国人(軍人が多かった)も訪れるようになりました。
 わが松江スベロー会もご縁あって青雲閣時代から何十年も定宿としてお世話になってきています。こうして思い起こすとお世話になった歴代の支配人やベテラン職員の方の顔々が浮かんできて、改めて感謝する次第であります。
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